寝太郎の由来
 その昔、「長門の国は厚狭の里」(山口県山陽町)に、ものぐさな若者がいました。毎日、毎日寝てばかりいるので、いつか村じゅうの者に「寝太郎」と呼ばれ物笑いの種にされていました。
父親の庄屋さんは、村一番の金持ちでしたが、一人息子の寝太郎のことになると、「困った、困った」を繰り返すだけでした。
 その寝太郎が三年と三月をまるまる寝て暮し、ある日、ひょっこり起き上がると「お父ッつあん、すまんが「千石船」を一そう作っちょくれ」と言います。
 庄屋さんは、目をくるくる舞いさせて驚きました。「困った、困った」と言いながらも、とうとう千石船を作ってやりました。すると、今度は「船いっぱいのわらんじ(わらじ)を買うちょくれ」と言います。庄屋さんはしかたなく、わらんじを村じゅうから買い集め、千石船いっぱいに積んでやりました。
庄屋さんは何のためやら訳もわからず、ただ「困った、困った」を繰り返すだけで、寝太郎の言いなり放題でした。
 そうして寝太郎は、たっしゃな船乗りを8人雇ってもらい、ふらりと厚狭川を下って行きました。
 「本当に庄屋様も可哀相じゃ。寝太郎が起きたと思うたら、ふらふら海へ迷い出てしもうたわい。」「宝船の夢の続きを、してみとうなったそじゃろう・・・」村人の陰口は、色々でした。
 実は、寝太郎は金山で有名な佐渡ヶ島へ、渡ったのでした。
 当時、佐渡では、ひとにぎりの土でも島から外へ持ち出すことを厳しく禁じていたのでした。
 島に着くなり寝太郎は、新しいわらんじを金山で働く人夫の泥でよごれた古わらんじとただで取り換えてやりました。
 そうして40日たった日の明け方、ぶらりと寝太郎の千石船が厚狭へ帰ってきました。
 寝太郎は、いそいそと出迎えた庄屋さんへ「お父ッつあん、できるだけ大きな桶をなんぼ(いくら)でもええけえ、いそいで作っちょくれ。それに、そんじょそこらの手すきの百姓衆におども(わたし)の手伝いをたのんじょくれ」と言います。
 庄屋さんは、もう恥も外聞もかなぐり捨てる思いで、八つの大桶を作ってやり、そして村の百姓衆に頭を下げて回り、よび集めてやりました。さすがに今度という今度は、庄屋さんもいたたまれず、家の中に隠れてしまいました。そして三日三晩、佐渡から持ち帰った古わらんじの縄をほどき、それをいっぱいに水をはせた八つの大桶で洗いました。上水を捨てさせると、なんと底には山盛の金の砂がキラキラ光っているではありませんか。
 村人は、寝太郎が三年と三月誰にもしれず、寝て思案したことにやっと気づき、「寝太郎はえらいやっちゃ!」と、はじめて言いました。
 さてさて、寝太郎は、こうして儲けたお金で、厚狭川をせきとめ、大井手をこしらえ、灌漑用水路を作りました。すると、それまで荒れ地だった野っ原が、いっぺんに豊かな水田に変わりました。
 寝太郎は、こうしてできた、広い広い「千町か原」とよばれる田んぼを、そっくりそのまま、村の百姓衆に分けてやりました。
 のちに、「寝太郎さま」とよばれるようになった寝太郎は、二百十一歳までも、長生きしたといいます。
 死んだのちも、厚狭の村人から、神さまにまつられ、その小さな祠は、いまだ、どんな日でりにも干あがらないという、千町か原の、広い田んぼの中に建っています。
(麻生陣平、再話を参考)